半年放置してたアヒャ(゜∀゜)スガーン
とある人のために久々の更新(´・ω・)
コレでも納得できなかったらもうダメかもわからんね('A`)
って事で皆殺し編の冒頭部分スタート!
…何をしているの?
あなたが自発的に遊びを始めるなんて珍しい。
私の問い掛けに頷くことしかできない存在だったのに、・・・いつの間にか自我を持ったのかしら?
…嬉しいわ。
私にも妹、あるいは弟?ができて。
かつての私もあなたのような虚無の存在だった。
それがいつしか自我を持ち、思考を持ち、自らの姿を持つに至ったんだもの。
だからあなたが自我を持ったって不思議なんて思わないわ。
この、無限に広がりながらも、同時に閉ざされた狭い世界にようこそ、私の妹。弟かもしれないけど、あなたの性別がわからないからわかるまでは妹にしておくわね。
ここは終わりなき永遠と無限の世界。
でも、だからと言って果てしなく広大で広いというわけじゃない。
そうね。例えるなら半径の小さな輪っかの世界と言うべきかしら。
輪っかをぐるぐると回り続ける分には、終わりのない永遠の世界だけれども。
それは決して無限の広がりを持つという意味じゃない。
そう、つまりここは、永遠に閉塞した世界ということ。
未来は無数の選択肢に紡がれて無限の広がりを見せるはずなのに、・・・なぜか私たちの世界は必ず「死」という名の終焉で閉じられてしまう。
それを例えるなら、さしずめ運命の迷宮ということなのかしら。
いつまでも同じところばかりぐるぐると回っていると、・・・だんだん辛くて飽きてきて、私みたいなのが湧き出すことになる。
…それがさらに続いて、あなたまで生まれてくるなら、やがてはこの世界もあなたの妹たちで埋め尽くされていくかもね。
そうしてこの世界にコロニーが築かれ、狭い迷宮世界に興味を失った時が、私たち「古手梨花」が消えてしまう時なのでしょうね。
…梨花はまだ狭い世界に未練があるようだけど。私はとっくに興味を失っている。
だから、あなたという話し相手が生まれて本当に嬉しいわ。
それで、あなたはさっきから何をしているの?
記憶のカケラで積み木遊び?
今はほんの5〜6個しかないけれど。
それでも少しは楽しい遊びが出来るかもしれないわね。
本当はもっともっとたくさんあったの。
…でも、少しずつ闇に解けて消えてしまった。
今、はっきりと残っているのはそこにあるだけ。
あぁ、それはそう使うんじゃないのよ。
ほら、こうしてかざしてごらんなさい。
それらはそれぞれが、古手梨花の人生と、終焉よ。
それは・・・、あぁ、懐かしい。
圭一が囚われた世界での物語ね。
私はそれらのカケラを本のようなものだと思っているので、「鬼隠し編」と名付けている。
「鬼隠し編」の世界は、覚えてる?
そう。それなら話は早いわね。
「鬼隠し編」の世界では、前原圭一が闇に心を囚われてしまった。
気遣う友人たちの言葉に耳を貸せず、結局その心にも気付かず殴り殺してしまった気の毒な物語。
そして私たちはその後、予定調和のように殺されてしまうんだけれどね。
彼の物語とは無関係に。
そっちのカケラは「綿流し編」よ。
この世界で囚われてしまったのは園崎詩音。
昭和57年に消息を絶った片思いの恋人の仇討ちが暴走し、大勢の人を殺めてしまう。
梨花もがんばったんだけれどね。
身体能力差はどうにもならず、結局捕らえられて、酷い拷問で虐め殺されちゃったわ。
だから「目明し編」の世界では、もう一度同じ展開になったので、拷問より自害を選んだのだけれど。
そっちのカケラは「祟殺し編」という世界よ。
…沙都子の叔父が帰ってきて、沙都子を連れ去って閉じ込めてしまう。
ある意味、これは最高に運のない世界。
梨花の頑張りではどうにもならない袋小路のような世界。
まぁ、叔父が帰ってきたら不運を嘆いてその世界を諦めた方がいいかもね。
叔父が帰ってくる確率は、幸いにそう高くはないんだし。
それは「罪滅し編」という世界よ。
ついさっきまで梨花がいた世界。
この世界で囚われたのは竜宮レナ。
クラス中を人質に取っての篭城はなかなか面白かったわよ。
とても意外だったのは、前原圭一が私たちのように、別世界の記憶を持っていたこと。
でも、あれほど顕著な例は珍しいけど、日常においては誰もが記憶を持っているはず。
こうしていたら、ああなっていたかもしれないと想像する、IFの世界。
初めて経験するはずのことなのに、すでに経験していたように感じる既視感。
誰もが別の世界でもIFを断片的に覚えているけれど、それを知覚する事は出来ない。
当然よね。
だから、あなたが今遊んでいるその記憶のカケラという積み木、「複数個」見えてる時点で、あなたはとてもとても特別な存在だということなの。
それが特別なことだと気付くのは、・・・あなたには難しいかもしれないわね。
だってあなたは、それらが複数見えることが当たり前な世界に、最初から生まれてきたのだから。
私はこの世界ではなく、単一なる普通の世界から生まれた。
だから、記憶のカケラで積み木遊びができるなんてことは、本当に最近になって覚えたのよ。
あなたが、手悪戯がしたくて手に取っただけの行為でも、私にとっては長い時間の中でようやく気付いたこと。
…ごめんなさい。
私のことなんかいくら話しても、あなたにはわからないし、興味もないことよね。
うん?どうしたの?何を不思議がっているの?
…何々?どうして同じ舞台の世界なのに、これほどまでに違う事件が起こるのか?
くすくす。…そうよね、そこはとても面白いところ。
あなたはどうしてだと思う?
一緒に考えてみましょう。
考える事が遊びの第一歩なんだから。
たとえば、梨花の友人の中でも一際存在感の大きい人物、前原圭一。
彼は「鬼隠し編」で疑心暗鬼に囚われて、竜宮レナと園崎魅音を殴り殺してしまった。
でも、それが必然なら、前原圭一はどこの世界でも竜宮レナと園崎魅音を殴り殺していないといけない。
つまり、「鬼隠し編」における前原圭一の凶行は、前原圭一の【必然】ではないということ。
必然というのは、…そうね。
前原圭一というコマの役割のことよ。
もし前原圭一が極度の疑心暗鬼の持ち主で、常に世界を曲解する性格の持ち主だったなら、「鬼隠し編」に限らず、他の全ての世界でも遠からず同じ行動を取ったはず。
でも、そういうことはなかった。
前原圭一というコマが、直情的で思い込みが激しいというのは事実のようだけど。
「鬼隠し編」のような暴走を見せること自体は、彼という役割から見れば、明らかに不自然なイレギュラーだと言える。
つまり、1つの世界で必然に見える事象でも、いくつもの世界を重ね透かして見ると、それは必然でないことがわかるということなの。
逆を言えば、起こすべくして起こされている事実は、世界をいくつ跨いだところで、毎回変わりなく繰り返されるということ。
これこそが本当の必然。
これがとても大切な事。
複数の世界のカケラを重ね合わせて、共通する事実が最も真実に近いことになるということ。わかる?
さっきも言ったとおり、複数の世界で毎回異なる事実は、その単一の世界では必然であったとしても、複数の世界から見たら気まぐれな偶然に過ぎないということ。
…例えば園崎魅音が催す部活の種目がいい例ね。
園崎魅音が、何らかの強い目的があって部活の種目を決めていたなら、その種目はどの世界でも行われているはず。
でも現実にはほとんどの世界で種目は異なっている。
それはつまり、部活の種目を何にするかについては、園崎魅音が「気まぐれ」でランダムに決めている事を示している。
これは、複数の世界を見ることのできる私たちにはあっさりとわかる事だけれど。
単一世界の記憶しかない人間たちには、その種目が「気まぐれ」で決まったものなのか、「強い意志で予定されたものなのか」、見破ることができない。
つまり、単一世界の彼らには推理不能な「園崎魅音の心の中」のことも、私たちには推理できるということ。
でも種目についてはランダムかもしれないけれど、ほとんどの世界で園崎魅音は放課後にほぼ確実に部活を開く。
つまり、部活を開くというこの一点においてだけは、園崎魅音の「強い意志」が働いていることになる。
つまり園崎魅音は、「放課後には絶対部活で遊びたい」、だけど「種目は何か適当な思いつきで」ということが私たちにだけはわかるわけ。
ね?
ちょっとした積み木遊びだけでも、園崎魅音が部活に対してどんな事を考えているか、案外わかるものでしょ?
これだけのことで、園崎魅音というコマの役割の一部が見えてくる。
では話を、前原圭一にもう一度戻すわね。
一つの世界の記憶しか持たない人間たちにとって、「鬼隠し編」の世界は、前原圭一が原因不明の錯乱を起こし疑心暗鬼の末、友人たちを撲殺した物語でしかない。
それ以上をいくら探ろうとしても、何もわかりようがない。
でも、私たちは、たくさんあるカケラを重ね合わせて、彼らには気付けない真実を見付け出すことができる。
その結果わかる事は、彼が友人たちを撲殺するのは「必然」ではないということ。
これは最初に言ったわね。
少なくとも、あなたの手元にある5〜6個のカケラの中には、前原圭一が友人たちを撲殺する物語はその1つしかないはず。
ということは、ちょっと乱暴な結論だけど、前原圭一がこの惨劇の引き金役となるのは、確立20%未満程度の、ちょっとした「気まぐれ」と言えなくもない。
つまり、前原圭一が惨劇を起こすこと自体は複数ある世界の中では特別重要なものではないということ。
さぁ、ここから何かの共通点が見つけられる…?
あら、もう気付いたの?
…さすが、この世界に生まれただけのことはあるわね。
積み木遊びの要領を学ぶのが早いわ。
私はなかなか気付けなかったわ。
……普通の世界に生まれた身だから、単一世界単位でしか物が見れなくて。
…「前原圭一が」という点に固執してしまって、なかなか気付けなかった。
そう、そのとおりよ。
少なくとも「鬼隠し編」「綿流し編」「目明し編」「罪滅し編」には明白な共通点がある。
それは、不特定人物が疑心暗鬼に取り付かれて凶行に走るという点。
それぞれの世界で、前原圭一が、あるいは園崎詩音が、あるいは竜宮レナが、自身の妄想を加速させ凶行に至ってゆく。
前原圭一と園崎詩音、そして竜宮レナは皆、近い位置にいて交友関係を持つけれど、生まれも育ちもまったく違う他人同士。
……雛見沢という舞台に登場するコマという以上の共通点は見付けられない。
そうね、私がさっき自分で言ったわね。
複数の世界のカケラを重ね透かして見た時。
偏る事象にこそ真実があるのであって、気まぐれな事象には大した意味はない。
つまり、共通しない「犯人」たち個人には、それほど重要な意味はないということ。
さらに言えば、事件である「凶行」そのものにも意味はない。
前原圭一は友人2人を撲殺。
園崎詩音は御三家を中心に皆殺しにし、竜宮レナは学校を占拠した。
どれもバラバラ。何の共通項もない。
むしろもっともっと重要な事実は、犯人も事件もランダムに決まるのに、凶行に至るまでの疑心暗鬼の「プロセス」は完全に共通するという点。
犯人というコマが不特定なのにも関わらず、凶行に至る「プロセス」だけが一致する。
異なる世界のカケラを重ねて、浮かび上がる真実のひとつがこれ。
つまりこれこそが、雛見沢という舞台に無限に広がる平行世界の真実のひとつ。
つまり、この舞台には「特定されないランダムな人物が、疑心暗鬼に取り憑かれ、凶行に誘われる」というルールXがあるということ。
前原圭一、園崎詩音、竜宮レナという、特別な繋がりの見えないコマたちが、ランダムな確率で、そのルールに取り込まれる可能性があるということ。
このコマたちが、どういう確率の元でルールに取り込まれているのかはわからない。
ひょっとすると何かの法則があるのかもしれない。
例えば、この3人が近い年齢にあることが鍵なのかもしれないし、雛見沢に住んでいることが鍵なのかもしれない。
……それは、探偵でもなければ警察でもない、小娘に過ぎない私たち「古手梨花」にはわかりようもないことよね。
でも、雛見沢という舞台に、そういう不思議なルールXが存在することは、焙り出せたでしょう。
これは単一世界に住まう人間たちには絶対に理解できないことなの。
私はそれを理解できる事に愉悦を感じるのだけれど…。
…あなたにとってはそれは当たり前のこと過ぎて、特にどうとも思わないのかしらね。
え?何?
そうよ。共通すればするほどに、それは強い意志を持って行われていることになる。
あら、くすくす。それは真っ先に気付くところよね。
…そう、富竹ジロウと鷹野三四は、この舞台においてほぼ絶対的運命で殺される。
しかも、その殺され方などは全ての世界において不変。
…つまり、さっき見つけたルールのような不安定さとは違い、その全てが徹頭徹尾、強い意志によって完遂されているということ。
それは、不特定の誰かが凶行に誘われるという、不思議で曖昧なルールXとは馴染まない。
だって、誰がこのルールに囚われようとも無関係に、必ず彼らは殺されるんですもの。
つまり、毎年、綿流しの夜に富竹ジロウと鷹野三四が殺されるという、もう1つの異なるルール、Yがあることがわかる。
くすくす…。ここにちょっとした喜劇性があるのに気付くかしら?
「鬼隠し編」や「綿流し編」で、あるいは「罪滅し編」で、毎回、富竹ジロウたちが殺されてるわよね?
それらの世界の中で、毎回、惨劇の主人公たちは、その富竹殺人が自分の身近に迫っている危機と関係があるように曲解していない?
彼らが凶行に誘われるルールXと、富竹ジロウたちが殺されるルールYは異なる独立したもののはずなのに、彼らはその2つのルールを無理に結びつけようとしたがる。
それにはもちろん、凶行に誘われる彼らがそのプロセスで疑心暗鬼の被害妄想に取り憑かれているためとも言えるんだけれど…
疑心暗鬼に囚われた彼らに、この2つのルールを結びつけようと誘導している存在がいることに気付くかしら?
そう。この誘導するコマの存在が、この雛見沢という舞台をややこしくしている。
そのコマは少なくとも2人見えているはずね。誰だかわかる?
大石蔵人というコマの役割については、これまでのカケラを重ね合わせれば見えてくる。
彼は、定年を間近に控えた刑事で、今年中に雛見沢村連続怪死事件を解決しようと焦っているの。
だって、家の都合で定年退職を迎えたら、引っ越さなくてはならない。
だから何としてでも、退職前の雛見沢にいられる内にこの事件を解決したいと思っている。
どうしてこんなにも雛見沢村連続怪死事件に固執をしているのかしら?
そう。それは一番最初の事件、現場監督バラバラ殺人事件。
この被害者が、大石蔵人の親しい友人だった事に起因している。
これについては「暇潰し編」のカケラを見ればわかるわね。
また当時、ダム戦争が激化している最中に大石はいた。
大石は鬼ヶ淵死守同盟を先導する園崎本家を間近に見ており、全ての黒幕が園崎本家に違いないと確信していた。
だから、雛見沢村連続怪死事件について、どのような証拠があろうとなかろうと、始めから園崎本家が犯人だと決め付けていた。
その偏執的な私的見解が、警察の刑事であるという信憑性を得て、各々の世界の哀れな被害妄想者たちに影響を与えていく。
その結果、ルールXに囚われた気の毒な「犠牲者」は、自身でも正体のわからない疑心暗鬼の正体を、園崎気の暗躍のせいという形で納得させられていく。
…一番顕著な例が、園崎詩音の事件かもね。
そう、だからこの大石というコマが変に干渉しなかったなら、ルールに囚われた犠牲者たちはあれだけの凶行には及ばなかったかもしれない。
間接的に惨劇を引き起こす、そういう役割を持ったコマと言えるわね。
それを思うと、誰が名付けたのか知らないけれど、大石蔵人に対して与えた「オヤシロ様の使い」という通り名は、そんなに的外れではないことになる。
もう1つのコマ、鷹野三四もまったく同じ。
鷹野三四は、鬼ヶ淵村の怪しげな歴史を面白半分に研究して、それを誰かに話して怖がらせる事を楽しんでいる、それだけの役割のコマのはず。
ところが、大石というコマとの相乗効果で、哀れなルールの犠牲者に、園崎家が主導で村ぐるみの怪しげな陰謀という疑心暗鬼を植え付けてしまう。
鷹野三四にとって、疑心暗鬼に囚われ、その正体を求めて藁にもすがりたい気分の竜宮レナは、格好の獲物だったに違いない。
鷹野三四は、当人の逃れられぬ運命によって、結局殺されてしまうわけだけど。
もしも死なずに済んで、レナの学校篭城を見ていたなら、きっと高笑いをしていたに違いないわね。
さて、実は今紹介したコマがそういう役割を果たすのに至ることにも、ルールがあるのに気付いたかしら?
彼らがそういうことを話してしまい、また聞いた方もそれを信じてしまう土壌の存在。
それこそが喜劇性の高い第3のルールZ。
これについては手元にあるカケラから完全な解答が出ているわね。
つまり、園崎本家は何があっても自分たちが黒幕であると振舞うというブラフの伝統の存在。
園崎本家は、自らを黒幕めいた存在に見せるため、自分たちに利するあらゆる出来事を自分たちが黒幕であるかのように「フリ」をしてきた。
その結果、村人たちは、ダム戦争以来、常に裏で園崎家が暗躍している事を疑わなくなった。
そしてそのルールに囚われたのがまさに大石蔵人と鷹野三四というコマなわけ。
広義の意味では、村全体が囚われているとも言えるわね。
こうして考えると、
そもそも「雛見沢連続怪死事件」も疑わしくなるわね。
くすくすくす…。どうしてかって?
今この場にある記憶のカケラはほとんどが昭和58年のものしかないから、昭和54年から57年までの事件についてはさっぱりわからないけれど。
それらの事件が「連続」であると解釈しようとすることそのものが、この「全てを園崎本家が黒幕であろうと信じてしまうルールZ」に囚われた結果である可能性も出てきてしまうわけだから。
つまり、実は異なる理由から起きている複数の事件を、無理に1つにまとめようとしてしまっているのではないかということね。
まぁ、ここにあるカケラからは真実が確かめようもないけれど。
それに、どれかのカケラの中になかったかしら。
それぞれの事件は個別に解決している、って。
それが正論か暴論かはわからないけれど、案外無視できない真実だったりしてね。
そういえば、「目明し編」の中で詩音が興味深いことを言っていた。
彼女が提唱する「祟りシステム」という話よ。覚えてる?
この雛見沢では、村の仇敵を。オヤシロさまの祟りの名の下に、綿流しの夜にだけは殺してもいい、という「この晩にだけ殺人を容認する」土壌が、祟りの正体なのではないかという仮説。
ここにあるカケラはほとんどが昭和58年のものだから、詩音のこの仮説が正しいかは裏付けられないけれど、それでも興味深い部分があるわ。
それは、犯人という個人が事件を起こしているのではなく、「環境」が事件を生み出しているという部分のこと。
単一世界の人間は、例えば強盗事件について、犯人の生い立ちから事件に至るまでのプロセスを分析したがるけど、この着想はそれとは違う。
つまり、強盗犯を生み出した「環境」こそが悪であると言っているのと同じってわけね。
つまり、強盗犯Aはたまたま事件を起こしただけで、貧困な環境は、ひょっとしたら強盗犯B、あるいはCを発生させてたかもしれない。
よその世界ではAは犯人だったかどうかはわからない。
ゆえに、真の犯人はAではなく、A〜Cを発生させる環境が悪であるという考え方。
まぁ、単一世界でもこの考え方には至るんだけど、生贄主義が横行してるから、Aに対して社会的リンチを加えるだけで、Aを生み出した「環境」は見てみぬふりをするのが通例ね。
あら、…混乱させちゃったかしら?
ごめんなさいね。
あなたにはこの例えの方がかえってわかりにくいのかしら。
私は普通の世界の生まれだから、この例えの方がわかりやすいのだけれど。
あなたにわかるように言えば、多くの世界で起こされる惨劇の犯人とは、前原圭一や園崎詩音などの「個人」ではなく「環境」、つまり「ルールX」こそが真の犯人であるということ。
それに至れたのなら、「ルールX」の正体がわからなくても、あなたにはかなりいい得点をあげられるわね。
そして、この雛見沢という舞台を支配する不可視の3つの法則、すなわちルールX、Y、Zの存在に迫れたなら。
これもかなりいい得点をあげられる。
この法則を理解できたなら、初めて経験する世界であったとしても、惑わされずに真実を見つけることが容易になるのだから。
ね?面白い世界でしょ?
たった3つしかないルールがシンプルに干渉し合い、雛見沢というたった1つの舞台の上で、まるで万華鏡のように異なる世界を繰り広げる。
これは多分、とても珍しいケースだと思うわね。
他の土地では、きっと何べん世界を繰り返し重ねても、ここまで極端な変化は見せないはずなのだから。
だから、私はここからこうして世界を眺めているだけで、まだまだ退屈しないで済むのだけれど。
…さて、世界のカケラを重ね合わせてわかる最後の事実がもう1つある。
そしてこれこそが私たち「古手梨花」を悩ませる最大の問題点なのだけど。
以下話が変わってくるのでここで糸冬 了
疲れた疲れた約5時間('A`)
あと、12月9日と12月27日の記事が祟殺し編について書いてるやつなんで、元気があれば読んでやってください(・∀・)